青嶋 仁(あおしま ひとし)
1947年4月7日 静岡県に生まれる
1972年沼津歯科技工専門学校卒業
1974年 東京医科歯科大学歯学部付属歯科技工士学校実
習科修了,同大学歯科病院勤務
1977年 昭和大学歯科病院中央技工室室長
1989年 IDA ラボテックスクール非常勤講師兼任
1993年(株)オーリアラ設立
1996年 米国・ルイジアナ州立大学非常勤講師兼任
1997年 ノリタケデンタルサプライ技術顧問
1999年 東京医科歯科大学歯学部付属歯科技工士学校非
常勤講師兼任
2000年 大阪セラミックトレーニングセンター非常勤講
師兼任
早和田歯科技工トレーニングセンター非常勤講
師兼任
2001年 ペルーラ AOSHIMA 設立,
青嶋ゼミ開校,
2023年 死去(76歳没)
青山 仁氏は、皆さんが普段何気に使っているテクニックインターナルライブステイン法を生み出し、その専用ステインをノリタケと共同開発し商品化しました。このテクニックは多色築盛法に比べて合理的に正確に色調再現ができることから、世界中に瞬く間に広まることとなります。
氏のこのテクニックが世間に受け入れられた背景には色調再現だけではなく 氏の自然感のある形態再現の素晴らしさとの共存の上に成り立っていることは忘れてはいけません。氏はグレーズ後にポーセレンクラウンを研磨し、クラウンの質感を高める手法をおこなっていました。才能のある歯科技工士には共通点というものがあり、ポーセレンのさらなる質感にこだわった歯科技工士は、当時は世界の中で青嶋 仁氏とWilli Geller氏でした。
余談ではありますが、Willi Geller氏は、青嶋氏が1991年に執筆した「CERAMICS EXAMPLE 」を見ながら、青嶋氏からはカリスマ性を感じると言っており、世界のトップセラミストから見てもカリスマ性を感じるほどの類をみない歯科技工士でありました。
当時、日本では形態修正、色調再現といえば、山本 眞氏の流れを組む大阪トレーニングセンター、早稲田トレーニングセンターの関係者が主でありましたが、青嶋氏は、彼らとは全く繋がりのない独自の才能で歩み、名声を高め、他の歯科技工士をを凌駕するほどの逸材となりました。日本の歯科界は彼の発表する臨床ケースの数々に感動し震撼しました。それは日本だけではなく世界でも同じ現象が生じたのは言うまでもありません。また彼のテクニックにより、彼の影響を受けた日本の臨床家のポーセレンのレベルアップがされたことは間違いありません。氏の略歴を見ていただければわかりますように、当時の三大卒後研修科で非常勤講師を務めていたほどの経歴からも判るように、当時の日本の審美は青嶋仁氏を欲していました。
彼が世に出てきた当時は、QDTのマスターピースには模型上のサンプルケースの発表が多かったのですが、彼は常に臨床ケースを発表し、臨床とは何かを世間に知らしめた歯科技工士でもあります。臨床だけではなく彼の製作するサンプルケースは、口腔内かと見紛う程の質で、これもまた世界中の歯科界に衝撃を与え、当時の若い歯科技工士は彼の技術にかなり影響を受けたはずです。それだけ彼の当時の出現、存在は世間を驚かせたことなのでありました。
青嶋氏が1991年に執筆した「CERAMICS EXAMPLE 」は世界でも注目され、海外で販売していない時には、海外の歯科関係者はこの本を買い、友人にもお土産にもこの本を買って持って帰るほどの人気があり、後にこの本がDr. CHICHE, GERARDの眼に留まることとなります。Dr. CHICHE, GERARDは青嶋仁氏の才能に惚れ込み仕事を依頼し、二人のタッグによるケース発表の活躍により二人は更なる飛躍したことは皆さんもご存知のことと思います。
青嶋氏はイチロー氏のファンであり、自分でイチロー氏の絵を描き、その絵を自分のラボに飾っていたほどです。イチロー氏は皆さんがご存知の通り、日本はもとよりメジャーリーグでも有名な野球選手であり、メジャーリーグの価値観を変え記録を塗り替えた選手です。青嶋 仁氏はそんなイチローに憧れを持ちながら、氏の上記の事柄から自分とイチロー氏を重ね合わせて応援していたのかもしれません。
青嶋仁氏の書籍・写真集